インフレは忘れた頃に

世界金融危機以降の低金利政策が長続きする中で、唯一出口に向かいかけていた米国も緩和に後戻りすることになり、最近では米国の「日本化」などと懸念されている。度重なる金融緩和にもかかわらず、先進国経済で一向に物価が上昇してこない理由については様々な主張が存在するが、こうした状況の中で将来のインフレを心配する人はほとんどいなくなった。

ここ10年で起きてきたことを振り返れば確かにインフレよりもデフレやディスインフレを心配するほうが理にかなっているだろう。しかし、よく考えてみると物価の上昇を引き起こしそうな要因もそれなりに見受けられ、安易な金融緩和や財政支出の拡大には一定のリスクがあるように思う。誰もインフレを心配しなくなった今だからこそ、考えてみる価値があるのではないか。

保護主義の台頭

米国のトランプ大統領が仕掛けた米中の貿易戦争に代表されるように、現在の世界は明らかに保護主義に向かっている。他国からの輸入品に関税を課す行為は輸入物価の上昇そのものである。サプライチェーンのどこかが関税分を吸収することもあるだろうが、消費者に転嫁される部分が存在するかぎり、これは直接的な物価上昇要因である。

また、他国製品に関税を課すことによって、自国製品に関税が課されたり輸入が停止されるなど何らかの報復行為を受けることになる。例えば、中国が関税への対抗措置として米農産物の輸入停止したことで、トランプ大統領は農家に対して補助金を支給する必要に迫られている。本来、世界貿易とは各国が得意な生産分野に特化し、生産物を融通し合うことで全体のパイを増やすことを狙いとしている。これをやめて自国で生産する割合を増やすということは、人件費の安い国や自国より効率的に生産可能な国で生産していた今までよりも生産コストが上昇することを意味する。

ポピュリズム

保護主義と関連して政治面ではポピュリズムが影響を強めている。長引く金融緩和環境で実体経済は十分に回復せず金融資産だけが値上がりし、それらを保有している富裕層はますます豊かになった。一方で金融資産を持たない(持てない)層はなんの恩恵も受けられなかったどころか、預金の金利が下がってしまったことで利息も奪われてしまった。

こうして貧富の格差が広がり続けて先進国から中産階級が消滅した結果、ごく少数の富裕層とその他大勢の貧しい人々という二層構造ができあがった。政治家の視点に立てば、社会の大多数を占める貧しい側の人々をまとめて取り込むことが合理的である。この貧しい側の層にはグローバリズムの犠牲になった、斜陽産業に従事する人々も多く含まれている。「外国産の製品に関税をかけて自国での生産を増やし、国内の雇用を拡大する」という保護主義とポピュリズムの組み合わせは、今後も勢いを増していくだろう。

ドル安

米国の金融政策が緩和方向に転換した結果、中長期的にドルの価値が下落していく可能性は高い。一つはすでに緩和策を打ち尽くしてしまった感のある円やユーロに対するドルの下落であり、もう一つは金融緩和の常態化や通貨安競争によって希薄化される既存通貨全体の実物資産に対する下落である。ドル安は当然、ドル建ての商品価格の上昇を意味する。

別のより長期的な観点では世界貿易面でドル需要が後退していく可能性もある。保護主義の台頭によって世界貿易の規模が縮まれば、決済手段である基軸通貨ドルへの需要は抑えられるだろう。また世界の覇権国家が米国から中国に移り変わっていく中で、貿易の決済手段や外貨準備の面で中国元が米ドルに取って代わっていく動きはすでに始まっている。

安いコモディティ価格

金融危機以降のおよそ10年間でコモディティ価格は一貫して下落してきた。以下に示すのはコモディティ価格指数として代表的なCRB指数の値動きである。これだけでコモディティ全般の動きを語るのは強引かもしれないが、大まかな傾向として価格は下落している。

価格が下落している商品の生産に新たに参入したり、わざわざ生産設備を拡大する人はいない。既存の生産設備が老朽化していくばかりの期間が長く続いているとしたらどうだろうか。そして仮に今、コモディティ価格の上昇が始まったとしてもすぐに供給を拡大できるわけではない。原油や貴金属のために新たな掘削設備や精錬所を建造するにしても、農産品や家畜を一から育てるにしても、実際に商品が市場に流通するまでには年単位の時間がかかる。

世界経済の減速によって需要側が減少する可能性はもちろんある。しかし、世界の人口が増加し、新興国の生活水準が向上する中で、景気後退が始まったからといって人々が食品を買うことをやめたり、車や飛行機に乗らなくなるわけではない。需要はそれほど減らないかもしれず、需給バランスが大きく崩れる可能性はある。そうなったとき、供給側の拡大が完了するまでの数年間、コモディティ価格は上昇し続けるかもしれない。

財政拡大機運の高まり

各国で金融政策が限界を迎えつつある状況で、財政政策に解決策を求める動きが強まっている。国民の大多数が景気回復を実感できないまま、中央銀行による人工的な低金利を背景に、政府が財政支出を拡大することは政治的にも支持を受けやすくなっている。現に米国のトランプ政権は景気拡大局面の最終盤にあると見られる時期に財政支出を大きく拡大させてきた。また、MMT(Modern Monetary Theory)のような財政拡大を擁護するイデオロギーが注目を集めている。

インフレは本当に過去のものか

以上のようにインフレに繋がりそうな要因は決して少なくないのではないか。少なくとも、市場参加者がほとんど無視を決め込むほどには、あり得ないシナリオではないと考えている。より重要なことは、景気が後退していく局面でもしも物価が上昇し始めれば中央銀行は身動きが取れなくなる点である。そうした場合、歴史的に金融当局は実態経済を犠牲にしてインフレを押さえ込む道を選んできた。同じことが起きれば国債市場も株式市場も暴落を免れ得ない。