米国の景気支援策はインフレを起こさない

現在の金融市場で起きているのは、株高、ドル安、金価格上昇などである。この動きを素直に受け取れば、金融・財政両面からの景気支援策が反映されているということである。

中央銀行が金融市場へ流動性を供給し、米政府が家計へ現金を給付する。問題は新型コロナウイルスの流行による悪影響と景気支援策のどちらが勝つかである。市場が予想するインフレ率であるブレークイーブンインフレ率(5年、10年)を確認してみると以下のようになっている。

ブレークイーブンインフレ率は右肩上がりに推移しており、コロナ前の水準に戻りつつある。市場は3月にはデフレを予想していたが、現在は経済へのダメージは中央銀行や政府の経済対策によって埋め合わせられると考え始めているのである。FRBが長期金利をゼロ近辺に押さえ込む一方で、期待インフレ率が上昇しているのだから、つまり実質金利が低下しているのである。それで、株高、ドル安、金価格上昇なのである。

市場が織り込んでいるインフレ期待は妥当なのだろうか。現在の市場のトレンドが続くかどうかは、ブレークイーブンインフレ率の上昇が続くかどうかにかかっている。

1.マネタリーベースとマネーストック

インフレ率の先行きを考えるために、まずはマネタリーベースとマネーストックを確認したい。なぜならこれが中央銀行と政府が行っていることの直接的な結果だからである。

FRBによる流動性供給によってマネタリーベース(赤)の前年比増加率は上昇したが、すでにピークを打ったようにも見える。インフレにとってより重要なマネーストック(緑)は米国政府による経済対策によって大きく増加している。

2008年以降の推移を見ればわかるように、中央銀行がマネタリーベースを拡大してもマネーストックはそれほど増えなかった。資金の借り手が不在であったため、金融市場に供給されたマネーが実体経済に出ていかなかったからである。しかし、今回の危機対応では大規模な財政支出を伴っているためマネーストックの増加率が顕著に上昇している。これは2008年以降の期間との大きな違いである。

2.設備稼働率

インフレ動向は需要側の都合のみで決まるわけではない。マネーストックが増加し、需要が拡大したとしても、供給も拡大すれば物の価格は上がらない。需要が経済が持つ供給能力を超えて物不足が起きるから価格が上昇するのである。

そこで生産能力に対する実際の生産量の比率である設備稼働率を確認する。少し長めに時間軸を取ってみると、設備稼働率がインフレ率の先行指標になっていることがよくわかる。ロックダウン措置によって急低下した設備稼働率は4月を底に急回復している。しかし、図中の過去2回の景気後退局面(グレーの部分)を見ると、設備稼働率が底打ちしてからインフレ率が底打ちするまで数年かかっていることがわかる。

3.賃金上昇率

近年の米国のインフレ率との相関が大きかったものの一つがサービス業の賃金上昇率であった。チャートが崩れてしまっているが、2018年から2019年後半まで賃金上昇率は高まっていたのである。しかし、7月の失業率が10.2%に高止まりしたことを踏まえると賃金上昇率が再び上向くまでにはかなり長い時間がかかると考えるのが自然ではないか。

4.為替レート

米国の物価水準は米国内の事情だけでは決まらない。海外から輸入されるモノやサービスの価格も影響するからである。輸入物価の水準は生産国の物価水準と為替レートによって決まる。

為替レートとインフレの関係には再帰性がある。通貨安は輸入物価を通じてインフレ率を上昇させ、インフレ率の上昇は実質金利の低下を通じて通貨安を起こす。確かに米ドルの実質金利は低下しているが、世界中が一斉に金融緩和に動く中で米ドルに代わって買える通貨があるかといえば思い当たらない。あるいは積み上がった債務を理由に通貨安とインフレのスパイラルが起きるとすれば新興国が先であり、90年代のような通貨危機が起きれば基軸通貨である米ドルはむしろ買われるだろう。

まとめ

米国でインフレは起きるかという問いに対する現時点の筆者の答えはNoである。マネタリーベースの増加はそもそもインフレにあまり関係がなく、マネーストックは確かに増加しているが、政府の緊急経済対策が現在の規模でいつまで続けられるかは未知である。設備稼働率の底打ちからインフレ率の底打ちまでは経験的に数年のラグがある。失業率が高い間は賃金上昇が起こる可能性は低い。ドルに対して積極的に買える通貨はなく、信用喪失による通貨安が起きるならまず新興国であり、それはドル高要因である。

インフレが起きないならば、中央銀行はしばらく金融緩和を続けることができる。これは株式市場にとってポジティブである。しかし、ブレークイーブンインフレ率の上昇が止まれば、米国の名目の長期金利はすでに0.5%台であるので、実質金利の下落余地は限られる。したがって、中期的な予想として「株価はしばらくの間は下支えされるが、上値余地もそれほど残っていない」という結論になる。果たして、上値余地が限られるものをこれから買うという人がどれだけいるだろうか。